-
Things Japanese
-
梅の花 p.112-114
日本中津々浦々探しても、花見客が、春とウメを見に行ける果樹園や林、または寺院の境内のない地区はほとんど見つからないが、東京の人々はウメの果樹園に際立って恵まれている 。最も有名で美しい梅林 の一つは杉田 にある。
杉田は、横浜近郊 の澄んだ水辺に佇む、趣きの小さな村である。ここには千本もの木々が一世紀以上にわたり立ち続けており、春になると花を咲かせ、国中からの人々の目を楽しませている。ここにはその木の6つの特別な種 があり、そして、それらの花の洒落た名前は花たちの異なる特徴を示す。日本人は花と木たちに特徴的な名前を見つけるのが非常に巧みである。臥龍梅 はその中 で最も有名で、実に東京の郊外 で一番目立つものとなっている。この50年ほど前に、非常に年を重ねた奇妙な形の素晴らしい木が育った。その枝は地面を掘り起こし、14箇所以上で新しい根を張り出し、自然と広い範囲を覆った。臥龍梅という名は、1837年に常磐公園 で林を植えた元の若君である烈公 に与えられた ものであり、この先見の明は今日に至るまで数々の訪問者に高く評価されている。当時の将軍 (もしくは、大元帥 )もその場を訪問し、毎年果実が授けられるという謙遜な恵み深い業へお返しするために、その木を御用木 、すなわち名誉のある木(Tree of Honourable Service)と名付けた。
しかし、これらの名誉も時が来て自然死を迎えることから木を救うことはできなかった。現在、その場所にはそれほど眼を見張るものでもないが、先代の第一の龍 と同じ名前とどうやら 評判まで受け継いでいる木がいくつか育っている 。臥龍梅からそれほど遠くない場所に、木下川 の果樹園があり、ここもまた名誉ある名前を持つ。なぜなら、ここは歌人が訪れる場所であり、梅の枝には歌 や発句(一七音) の歌が入った一片の紙が100枚もはためいているのを見ることができるからだ 。ここでもまた家族の集まりが見られるかもしれない。 母親とその背中にしっかりおんぶ されている末っ子、その小さな剃った頭は、ぐるぐると巻かれたおくるみの上にほんの少しだけ見えた。ほんの数夏を経験した幼子 は、下駄を履いてふらふらと歩き、紙の造花で飾られた自然の木の枝を握っている。その枝からは、何か変わった模様のついた短冊が揺れている 。または、祝日の祝いに向けた無数の玩具の一つを握っている 。そして、ほんの数年後、自分が畏敬の念と憧れで眺め続けてきた白雪の花にちなんで「ウメさん」と名付けられたと教えられた時に、厳粛した顔の少女は、黒いビー玉のような目が驚きで輝くのだ 。梅は日本人女性の中で一般的な名前である 。日本人 は、梅の名前を純潔と愛らしさと結び付け、梅の花の香りが暗闇で甘く香るように、その名前を生涯汚さず、死後も美しく残すように教えられている 。
以下の句はピゴット の『日本の庭園』 によるものである:
友は去
疾し年月も
梅匂ふ
友は忘れし
飛花は消えとも
香残す
梅へ飛び
鶯は住む
木陰の巣に
鳥の鳴く
雪解時の香
我求む
-
Piggott, Sir Francis Taylor ピゴットPiggott, Sir Francis Taylor (1852−1925) イギリスの法律家。
1852年4月25日生まれ。明治21年(1888)伊藤博文の法律顧問として来日。明治憲法草案の起草に貢献した。24年帰国。香港最高法院長などをつとめた。日本の音楽や庭園などに関する著書もある。1925年3月12日死去。72歳。ケンブリッジ大トリニティー-カレッジ卒。詳しくは、『お雇い外国人 11』(p.174-206)を参照。特にp.204-206にピゴットの著書のリストがある。
-
The Garden of Japan 1890年に書かれたピゴットの著書の一つで、ロンドンのジョージ・アレン社から出版された60ページの書籍である。Things Japanese, Flowers p.189におすすめされた本の一つでもある。この本では、日本の花が暦に沿って紹介されており、それに関連する和歌の翻訳も含まれている。また、アルフレッド・イーストによる4枚の絵が付随している。
-
ウメさん
チェンバレンは日本人女性の名前についてこのように述べている。Women’s names (yobi-na), which we will call No.12. These are generally taken from some flower or other natural object, or else from some virtue or from something associated with good luck. また、おすすめの本に“For women’s names, see one of the articles included in Lafcadio Hearn’s volume entitled Shadowings”と書いた。そこに「梅」という名前についてこのように書かれている。Umé (Plum-blossom) is a name referring to wifely devotion and virtue…Among the people it is customary that a female name of two syllables should be preceded by the honorific "O," and followed by the title "San,"—as O-Matsu San, "the Honorable Miss [or Mrs.] Pine"; O-Umé San, "the Honorable Miss Plum-blossom."( ウメ(梅花)は婦人の貞德に關はる名である。…二字の女の名は敬稱として上にオを、下にサンをつけるのが習慣である。オ松サン、オ梅サンなどと。)また、橋本(2022)によると「当時のジャポニスムあふれる物語において日本人女性はしばしば植物の名が付けられる」。そのため上記のような指摘がされただろう。
-
木下川梅園 文政時代から存在した東墨田にある6000坪の木下川梅園は、明治初期に勝海舟の別荘となったが、明治43(1910)年の大水害で樹木が枯れ、荒川予定地に重なることと中川水門(木下川水門)の建設により消滅した。葛飾区の木根川という地名は、放水路による村落の分断に由来し、元の地名である木下川から昭和40年代(1965)に変更された。
-
亀戸 亀戸は東京都江東区北東部の地名である。江戸時代の亀戸村は、御府内の東端に位置し、幕領である葛飾郡西葛西領に属した。この地には安藤(歌川)広重の錦絵に描かれている梅と藤の名所である東宰府天満宮(亀戸天神社)、臥竜梅で有名な梅屋敷、一説に本所七不思議の一つのおいてけ堀があり、幕府の銭座も設けられていた。現在は、江東屈指の商工業地域となっている。
-
臥竜梅
樹形が臥龍を思わせるような梅の園芸品種。がりょうばい。
-
杉田梅林
『磯子の史話』によると、杉田梅林は約400年前、杉田村が農業に不向きな土地であったため、副業として梅の栽培が奨励された。間宮言繁が領主時代に梅の栽培を始め、次第に村の主要な収入源となった。正保年間(1644~)には梅作が盛んになり、元禄時代(1688~)には約36,000本の梅木があった。梅の主な種類には浪花・薄紅梅・種割・青梅・豊後・五良左衛門の6種類がある。また、梅はすべて単弁で実りがよく、江戸では杉田梅と称された。杉田梅林の観梅地としての人気は、1807年に佐藤担の『杉田村観梅記』と清水浜臣の『杉田日記』の出版によって確立され、それ以降ここの梅を詠んだ詩歌がたくさん発表された。横浜開港後、外国人を含む多くの人々が杉田の梅林を訪れるようになった。当初は屏風ヶ浦の断崖により海岸道が通行不可能で、外国人は船で杉田に向かっていたが、明治17年のトンネル完成後は馬車を使って通っていた。明治20年頃から、杉田梅林は衰退し始め、梅の収穫量も大きく減少した。この衰退は暴風や塩害による樹幹の損傷、老衰による梅木の減少が原因だった。また、多くの梅木が三渓園へ移植されたといわれている。現在、地元の人々による再興の努力が続けられている。なお、江戸名所図会に「杉田村梅園」の押入れがある。
-
歳時典礼○杉田の青色
-
Plum Blossom, p. 112-114 The seventh chapter of "The Flowers and Gardens of Japan"
-
太陽第14巻第2号
-
The Plum Blossom
-
Florence Du Cane
-
Ella Du Cane
-
The Flowers and Gardens of Japan "The Flowers and Gardens of Japan" by Florence Du Cane is a descriptive work focusing on the unique aspects of Japanese horticulture and landscape gardening.