杉田梅林
アイテム
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タイトル
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杉田梅林
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内容記述/Description
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『磯子の史話』によると、杉田梅林は約400年前、杉田村が農業に不向きな土地であったため、副業として梅の栽培が奨励された。間宮言繁が領主時代に梅の栽培を始め、次第に村の主要な収入源となった。正保年間(1644~)には梅作が盛んになり、元禄時代(1688~)には約36,000本の梅木があった。梅の主な種類には浪花・薄紅梅・種割・青梅・豊後・五良左衛門の6種類がある。また、梅はすべて単弁で実りがよく、江戸では杉田梅と称された。杉田梅林の観梅地としての人気は、1807年に佐藤担の『杉田村観梅記』と清水浜臣の『杉田日記』の出版によって確立され、それ以降ここの梅を詠んだ詩歌がたくさん発表された。横浜開港後、外国人を含む多くの人々が杉田の梅林を訪れるようになった。当初は屏風ヶ浦の断崖により海岸道が通行不可能で、外国人は船で杉田に向かっていたが、明治17年のトンネル完成後は馬車を使って通っていた。明治20年頃から、杉田梅林は衰退し始め、梅の収穫量も大きく減少した。この衰退は暴風や塩害による樹幹の損傷、老衰による梅木の減少が原因だった。また、多くの梅木が三渓園へ移植されたといわれている。現在、地元の人々による再興の努力が続けられている。なお、江戸名所図会に「杉田村梅園」の押入れがある。