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増上寺の雪 特大判新版画
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十二神将立像(辰神) 十二神将立像 波夷羅大将・辰神(重要文化財)
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川瀬巴水 川瀬 巴水(かわせ はすい、1883年(明治16年)5月18日 - 1957年(昭和32年) 11月27日)は、日本の大正・昭和期の浮世絵師、版画家。本名は川瀬 文治郎(かわせ ぶんじろう)。
衰退した日本の浮世絵版画を復興すべく版元渡邊庄三郎(現 渡邊木版美術画舗初代)とともに新しい浮世絵版画(四者協業)である新版画を確立した人物として知られる。近代風景版画の第一人者であり、日本各地を旅行し旅先で写生したスケッチを元に木版画作品を数多く発表、日本的な美しい風景を叙情豊かに表現し「旅情詩人」「旅の版画家」「昭和の広重」などと呼ばれる。アメリカのロバート・ミューラーは川瀬巴水の木版画蒐集家として有名である。かつては国内よりもむしろ海外での評価が高く、浮世絵師の葛飾北斎・歌川広重等と並び称される程の人気がある。
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日光街道
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The Garden of Japan 1890年に書かれたピゴットの著書の一つで、ロンドンのジョージ・アレン社から出版された60ページの書籍である。Things Japanese, Flowers p.189におすすめされた本の一つでもある。この本では、日本の花が暦に沿って紹介されており、それに関連する和歌の翻訳も含まれている。また、アルフレッド・イーストによる4枚の絵が付随している。
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根津権現の雪 木版(多色)
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目黒不動堂 木版、紙
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ウメさん
チェンバレンは日本人女性の名前についてこのように述べている。Women’s names (yobi-na), which we will call No.12. These are generally taken from some flower or other natural object, or else from some virtue or from something associated with good luck. また、おすすめの本に“For women’s names, see one of the articles included in Lafcadio Hearn’s volume entitled Shadowings”と書いた。そこに「梅」という名前についてこのように書かれている。Umé (Plum-blossom) is a name referring to wifely devotion and virtue…Among the people it is customary that a female name of two syllables should be preceded by the honorific "O," and followed by the title "San,"—as O-Matsu San, "the Honorable Miss [or Mrs.] Pine"; O-Umé San, "the Honorable Miss Plum-blossom."( ウメ(梅花)は婦人の貞德に關はる名である。…二字の女の名は敬稱として上にオを、下にサンをつけるのが習慣である。オ松サン、オ梅サンなどと。)また、橋本(2022)によると「当時のジャポニスムあふれる物語において日本人女性はしばしば植物の名が付けられる」。そのため上記のような指摘がされただろう。
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宮島の月夜 / 川瀬巴水 木版(多色)
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初秋の浦安 木版(多色)
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清澄園の夕 木版(多色)
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木下川梅園 文政時代から存在した東墨田にある6000坪の木下川梅園は、明治初期に勝海舟の別荘となったが、明治43(1910)年の大水害で樹木が枯れ、荒川予定地に重なることと中川水門(木下川水門)の建設により消滅した。葛飾区の木根川という地名は、放水路による村落の分断に由来し、元の地名である木下川から昭和40年代(1965)に変更された。
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DH2024 the annual conference of the Alliance of Digital Humanities Organizations
2024年8月5日~10日に、アメリカ合衆国、ワシントンD.C.、ジョージメイソン大学アーリントンキャンパスにて開催されたDH2024に参加した。
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亀戸 亀戸は東京都江東区北東部の地名である。江戸時代の亀戸村は、御府内の東端に位置し、幕領である葛飾郡西葛西領に属した。この地には安藤(歌川)広重の錦絵に描かれている梅と藤の名所である東宰府天満宮(亀戸天神社)、臥竜梅で有名な梅屋敷、一説に本所七不思議の一つのおいてけ堀があり、幕府の銭座も設けられていた。現在は、江東屈指の商工業地域となっている。
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臥竜梅
樹形が臥龍を思わせるような梅の園芸品種。がりょうばい。
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杉田梅林
『磯子の史話』によると、杉田梅林は約400年前、杉田村が農業に不向きな土地であったため、副業として梅の栽培が奨励された。間宮言繁が領主時代に梅の栽培を始め、次第に村の主要な収入源となった。正保年間(1644~)には梅作が盛んになり、元禄時代(1688~)には約36,000本の梅木があった。梅の主な種類には浪花・薄紅梅・種割・青梅・豊後・五良左衛門の6種類がある。また、梅はすべて単弁で実りがよく、江戸では杉田梅と称された。杉田梅林の観梅地としての人気は、1807年に佐藤担の『杉田村観梅記』と清水浜臣の『杉田日記』の出版によって確立され、それ以降ここの梅を詠んだ詩歌がたくさん発表された。横浜開港後、外国人を含む多くの人々が杉田の梅林を訪れるようになった。当初は屏風ヶ浦の断崖により海岸道が通行不可能で、外国人は船で杉田に向かっていたが、明治17年のトンネル完成後は馬車を使って通っていた。明治20年頃から、杉田梅林は衰退し始め、梅の収穫量も大きく減少した。この衰退は暴風や塩害による樹幹の損傷、老衰による梅木の減少が原因だった。また、多くの梅木が三渓園へ移植されたといわれている。現在、地元の人々による再興の努力が続けられている。なお、江戸名所図会に「杉田村梅園」の押入れがある。
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歳時典礼○杉田の青色
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蜻蛉の滝(場所)
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『和州旧跡幽考』南帝王社
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『和州旧跡幽考』南帝王社(翻刻)
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お朝拝式(2) 奈良県吉野郡川上村金剛寺で行われる「お朝拝式」
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お朝拝式(1) 奈良県吉野郡川上村金剛寺で行われる「お朝拝式」
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土井利勝 土井 利勝(どい としかつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将、譜代大名。江戸幕府の老中・大老。下総国小見川藩主、同佐倉藩主、同古河藩初代藩主。土井家宗家初代。徳川秀忠政権における老中として、絶大な権勢を誇った。
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徳川秀忠 徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代将軍(在職:慶長10年(1605年) - 元和9年(1623年))。
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『大日本古文書』第8 毛利家文書
大日本古文書』(だいにほんこもんじょ)は、東京大学史料編纂所が編纂・刊行している日本史の古文書集。