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「毛利秀元自筆覚書」 「(端裏書))宗瑞様に秀元様ゟ被仰上候御ヶ条」
覚
一御公儀向之事、
付、公儀御使仕者之事
一万御法度之事、
一大炊殿へ対談仕候ヶ条、并彼返状懸御目之事、
一御仕組被成様之事、
一御年頭御歳暮之事、
付、御使から之事、
一永右近殿、同信州へ御書物被成御見可然之由、長門様も御意之事、
一爰元御音信之事、
一御作事大かた出来申候事、
一御年寄衆へ御振舞之事、
一御茶入之事、
一日向殿内儀爰元下之事、
以上
七月十一日 甲斐守
井加
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毛利秀就 毛利 秀就(もうり ひでなり)は、江戸時代前期の大名。毛利氏15代当主。長州藩の初代藩主。
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『萩藩閥閲録』
萩藩家臣団所蔵の文書・略系譜を集大成した史料集。
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本多正純
本多 正純(ほんだ まさずみ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。江戸幕府の老中。下野国小山藩主、同宇都宮藩主(第28代宇都宮城主)。本多正信の長男で、正信系本多家宗家2代。
徳川家康の側近であったが、徳川秀忠の代に失脚した。
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福原広俊
福原 広俊(ふくばら ひろとし)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。安芸毛利氏の家臣。毛利氏の一族である安芸福原氏当主。
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毛利輝元 毛利 輝元(もうり てるもと)は、戦国時代後期(安土桃山時代)から江戸時代前期にかけての武将・大名。安芸の戦国大名・毛利氏の14代当主。父は毛利隆元、祖父は毛利元就。
豊臣政権五大老の一人であり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となった。長州藩の藩祖でもある。
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鯛を釣り上げるえびす 人形遣い(太夫)がえびすの人形を持ち、えびすに扮して鯛を釣り上げる。囃子方は太鼓を鳴らし、唄とともに囃し立て、人形遣いの持つえびすに鯛を釣り上げさせる。
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「元和五年 毛利宗瑞書状」 呉々此通いつれへも申間候へく、事繁侯間書中ハ不成候、猶期吉事候
爰元去ル十六日京着候、則御年寄衆よりも御使給候
一十九日ニ高力左近殿為御上使被下候、気相をおさへ罷上候段、御祝着之由御懇之御意ニ候、相草臥可申候間ゆるりと御目見へ可申之由、大炊殿御内儀ニて昨日廿五日御城罷出候、先大炊殿迄罷上、色々結構なる御振舞共ニ候、左侯而御城罷上候、玄関迄乗物ニて可罷上之由御意ニ候て、歴々御年寄衆玄関ニ御待候園参候、さて神尾刑部殿・柳生又右殿其外道三之事不及申、皆ニ手を御引候て、御前へ罷出侯時ハ上野殿手を御引候大炊殿両人之御取持非大形侯、冥加おそろしく侯との由事候
一上様御意にハ、はる〳〵罷上候、気分被聞召たるよりも悪候条、弥養生肝要之由、殊外被入御念御意候、まへ〳〵之儀共、ゆる〳〵と御物語有度候得共、結句気共つまり相草臥候する間、無御意之由色々御退之儀ニ侯、御前ニて上野殿・大炊殿、我々存所を被心得候て無残所上野殿被申上候、大炊殿之儀は不及申、上野殿今度程入魂之儀有問敷と申事候、大炊殿へ彼是物語申度との申事ニて候、昨日は余互ニ無隙候間不成候、何も透次第ニ一両日中ニ、又此条計ニ大炊殿へ可罷越と存候、其儀調候は定而御暇可被下候間、則可罷下候
一諸大名衆御暇被下候するとの儀とハ申候へ共、于今無御意候、長門事定而可為其分候へ共、万長門・我々之調、爰元にてハ不成候、いつれも其許へ長門も可罷下候、可有其心得候
一来年之御普請江戸・大坂ニて候、定而方角ニて候間、大坂之御普請仕事ニて可有之哉と藤堂和泉内証候、然共于今しかとの事ハ不相聞候
一我気分は能候、草臥ハ不及申候、道三之薬を用申候相応之様こ覚へ侯間弥申談候
一其表皆々気分ともよく候哉、此たん存る事ニ候
一爰許我々ハ人に対面ことはりを申候、長門・甲州之あいしらい被申候へ共、何かと心遣候間、多分同事ニて候、草臥申候
一御方気分如何候哉、不可有油断候、次ニ爰許之ものニ候間、両種進之候、何も罷下、万喜重畳可申候、かしく
八月廿六日 宗瑞様御印形
福 越後
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第16回西宮浜脇ふるさとづくり ダイジェスト動画 CATV市広報番組「フロムにしのみや」令和6年7月1日放送
西宮市公式YouTubeチャンネルより
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人物史
特定の個人に焦点を当て、その生涯の出来事や活動を歴史的な視点から記述した記録のこと
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進士慶幹 進士 慶幹(しんじ よしもと、1925年〈大正14年〉2月13日 - 1987年〈昭和62年〉3月10日)は、日本の日本史学者。
暁星中学校を経て、1947年日本大学法文学部文学科史学専攻卒業、文学部助手。1949年東京大学史料編纂所入所、1972年日本大学教授。1987年3月10日、咽頭腫瘍のため死去。没後、勲四等瑞宝章を贈られた。
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酒井忠世 酒井 忠世(さかい ただよ)は、江戸時代初期の大名。江戸幕府の老中、大老。上野国那波藩主、伊勢崎藩主を経て厩橋藩の第2代藩主。雅楽頭系酒井家7代。
後世に成立した新井白石『藩翰譜』や『武野燭談』などの史料から、土井利勝や青山忠俊とともに家光が師事したとされる「三臣師傅説」に数えられている。
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「酒井忠世と土井利勝」 主に徳川秀忠を支えた幕政の主要な年寄、土井利勝と酒井忠世に焦点を当てた人物史的研究。両名の出生・家系・性格・政治的才能を整理し、秀忠政権の中枢における役割を人物中心の視点から明らかにしている。
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戎座人形芝居館
日本の伝統芸能を子どもたちに受け継いでいくという目的意識のもと、2008年から西宮で活動するグループ。狂言や獅子舞、人形芝居えびす座も所属し、中心的役割を担う。当初は常設の施設として、芸能を学ぶ場を提供するために活動をしていたが、2014年に閉館し現在はイベント合わせてメンバーが集い、各自が持つ芸能の技術を提供する活動を行っている。
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藤井譲治 藤井 譲治(ふじい じょうじ、1947年 - )は、日本の歴史学者。京都大学名誉教授。専門は日本近世史。
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制度史
歴史上の制度がどのように生まれ、変化してきたかを研究する学問分野
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人形芝居えびす座
えびすかきの復興を目的として活動を行っている団体で、2006年に結成された。当初から武地さんと松田さんの二人が所属していたが、武地さん逝去後、松田さん1人が所属している。
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取次論
1980年代に高木昭作や山本博文によって提唱された「出頭人」に関する論説を基に、取次論が制度史的観点として整理された研究。
高木昭作:「出頭人」を主君の権威を背景として取り次ぎを行う存在として定義
山本博文:高木説を継承・発展させ、取次論として政治体制の中に介在する公的職制として論じた
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「藩からみた近世初期の幕藩関係」 近世初期(1600年頃~1660年頃)の幕府と藩の関係を、藩側(特に萩藩毛利氏)の視点から分析。将軍と大名の仲介者である「取次」と大名側の渉外担当「聞次」の存在が重要であり、毛利氏は井伊直政や本多正信・正純、後に土井利勝・松平信綱を取次として利用した。1634・1635年の幕府申渡しにより取次の機能は老中月番制に移行し、交渉のルーティン化が進んだ。また、「外聞」を重視する政治意識が近世幕藩関係の特徴であることも示される。
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毛利秀元 毛利 秀元(もうり ひでもと)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。長門国長府藩の初代藩主。
正室は豊臣秀長の娘・大善院、継室に徳川家康の養女(松平康元の娘)・浄明院。一時期、従兄の毛利輝元の養嗣子となっていた。茶の湯を古田織部に学んだ茶人でもある。
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徳川秀忠期(1616~1632) 徳川家康の死(1616年)に伴い、徳川秀忠が幕政の実権を握った時期。江戸幕府の制度整備や諸大名統制、朝廷関係の調整が進められ、家光への権力移行の準備も行われた。秀忠死去(1632年)までの期間を指す。
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藩政史
江戸時代に各藩が直面した危機に対応するために行った政治改革の歴史
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田中誠二 田中 誠二(たなか せいじ、1948年 - )は、日本の歴史学研究者。専門は日本近世史、古文書の研究。元山口大学人文学部教授。同大学歴史学講座大学院教授。
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小原和紙のふるさと 小原和紙のふるさとは、豊田小原工芸和紙の魅力を楽しむ美術館と、体験工房がある施設です。
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アパート群